▲ 평면조건87-1 G15-6D, 1987

この時期の彼の実際の作品を見ると次のようになっている-白も黒も色彩として用いていること、油絵具の白と黒の場合には「地」が存在しないこと(支持体には画布や板を使用)、言い換えれば「地と図」という区別が取り払われていること、墨と紙(韓紙)を使用している場合にのみ四周の端に支持体の「地」がわずかに現れていること、例外に「青」色などを使用している作品があること。

ここから判るのは三つのことである。第一に、彼は白と黒をはっきり「色彩」として扱っていて、また伝統的な東洋の色彩思想も取り入れていることである。「白」の色味にヴァリエーションを付けていることは、墨の黒にあらゆる色彩を見ることに通ずる。

しかし第二に、どう言ったらいいのだろうか、白(と黒)に限定することによって生じている「狭さ」のなかに、彼はある種の「広がり」のようなものを感じ取っているのではないだろうか。あえて「狭さ」を選び、それを引き受けることが、ひとつの「広がり」に到っている。極限化がひとつの広がりをもたらしている。そしてその「広がり」は、「狭さ」でもあるがゆえに、「色彩」ということをいわば中性化する。

 

色彩という問題をどうでもよくしてしまうというのではなくて、最終的にはどんな色彩でも許容する地平を開いている、とでも言ったらいいだろうか。もしもそうだとするならば、理論的には崔明永(Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa:abstract paintings of Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영,단색화:한국추상회화 화가 최명영,모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)はどんな色彩でも使うことができる。

彼がそうしないのは、現実問題として、「白と黒」以外は、一般的に色彩はなんらかのものなり観念と結びついていて、それを連想させかねないからだろう。例えば赤なら血とか情熱、緑なら木々や草、青なら空や海というように。

▲ 최명영 작가, 1982년

そうして、「色彩の中性化」は彼の作品を、狭い意味での「絵画」を、その外側の広がりへと開放しているように感じられる。「絵画よりも大きな広がり」が彼の平面作品の場になっているのである。とすれば、「中性化」という言い方はちょっと違う。

これはじつは「色彩」の「なかみ」の変容にほかならないからである。僕たちは、これまでになかった「色彩の在り方」を眼にしている。そして第三に、「地と図」の区別を取り払っていることだが、これは「筆触」の問題として触れたほうがいいだろう。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)