▲ 평면조건05-28, 2005

そして、1997年から現在まで続いている崔明永(Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa:abstract paintings of Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영,단색화:한국추상회화 화가 최명영,모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)作品群を迎える。

これは既に20年にも及ぶから、そのあいだに多少の変化、というよりヴァリエーションがあることは言うまでもない。しかし稜線上を歩むという基本は崩さずに現在まで来ている。稜線の道はもちろん平らかでも歩きやすくもない。下りもあるし、登りもある。

制作上、以前とくらべて重要な変化が二つある。一つは「筆触(のように見えるもの)」が変化していることである。もう一つは油絵具からアクリル絵の具に変えたことである。支持体は変らずキャンヴァスだが、顔料を水溶性のものに変えたわけである。

以前の作品における「分割」が在り方を変えている。画面上に水平また垂直の線が見えるが、それは途切れ途切れである。しかも、それはじつは「線」ではなくて、上の白い層の裂け目からはっきり、あるいは薄く見えているのは下の黒い層だからである。ここでも、下の黒い層は筆で塗られているものではなくて、韓紙を墨に浸して全面を黒くしたものである(だから顔料はここに墨、そして上に白いアクリル絵の具である)。

この黒い韓紙がキャンヴァスに貼ってある。貼ってはあるがこの黒い韓紙は支持体ではないことに注意すべきである。韓紙を墨に浸しても、彼にとってそれは「描く」ことと等価である。筆触を無くして、「描かれた面」を純粋な面にするためなのである。その画面の上に白い絵の具の画面が重なっている。

上の白い層は、下の黒い層とも、かつての「3年間」とも違って、均一でも平らでもない。しかし画面全体から受け取る印象はそんなに大きく違っているわけでもない。1983年の、墨で黒い韓紙の上に白い韓紙を横長に帯状に切ったものを貼り付けた水平の分割の作品を思い出すなら、今度は、垂直も加わり、そして白い韓紙が白いアクリル絵の具に変り、韓紙を切って貼る代りに、描いている。

それも、眼を近づけると縦と横の筆触がはっきり見える。あの「3年間」までが筆触を無くしていく歩みだったとするなら、今度は筆触を許容している。しかし通常の距離まで離れて見ると、筆触はあまり気にならない。むしろ、筆触というより画面にある種の「動き」を与えている要素のように見える。試みが緩んだのではなく、極限化に幅が与えられたとでも言ったらいいだろう。

下の黒い層についていうと、それは「地」ではない。画家にとってはそれと上の白い層とで絵画になるのだ。観客の多くは「地」の再来と考えるかもしれないが、まあそれでも構わない。観客がげんに見ているのは全体だからである。

下の層は墨に浸すことで完全に純粋化、極限化して、「地」ではなくなっている。さらに、このようにいわば完全に暗転させることによって、第一に、上の層とは正反対の画面を実現して画面全体にさらなる厚み、広がりをもたらしている。第二に、極限化はすべて下の層が引き受けることで上の層に自由さをもたらしている。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)