ほとんど線ほどの幅しかない「黒」の部分が眼に強く作用するのが不思議で、そこに魅入られていると、「それ」が暗い水面のように、静かに、眼に見えるようにではなく輝いている、と感じられてきた。その輝きは深みからやってきていると感じられ、その「向う側」にまで広がりが繋がっているように感じられた。

広がっているのはつまり「空間」、現実的というよりは感覚的、心的な「空間」だというべきかもしれないが、僕がそのように感じ取る現象を支えているのは、究極のところではこの「光」の感触なのである。

さらに、向う側ではなくこちら側の白い層に眼を遣ると、塗り重ねられているにもかかわらず、その厚みは軽やかである。それは塗り方とか筆触に由来するというよりは、アクリル絵具の水溶性の溶剤に由来しているだろう。油性の溶剤が光を通さないのと異なり、こちらは光を通すからである。彼の画面では、光は上の層からこちら側、手前側へもやってくる、幾層もの塗り重ねを超えてだ。

光が無ければ世界が眼に見えることはありえない。人間にとって光は初めから与えられているものだから、人間は普通はそのことを考えもしない。考えもしないうちに、人間は光にたいする感受性を鈍らせてきたように思われる。何かが眼に見えるとき、人間は見えている世界ばかりを感じ取っており、そのことじたいを可能にしている光そのものは感じられなくなってしまったのだ。絵画は、そういう能力を回復するためにあってもいい。

勿論、絵画はそのためにだけ存在するというのではない。しかし、近代絵画がその役割を終えつつある今、絵画が別の方向を目指し始めている今、画家が、例えば崔明永が、絵画を従来の意味での空間ではない「広がり」を求めている今、画家自身が意図しなくても、「光」の方から「絵画」へと訪れてくる。そういうことが起りうる。

光を描いているとか、光を表現しているとかいうのではない。しかし崔明永(Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa:abstract paintings of Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영,단색화:한국추상회화 화가 최명영,모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)の絵画は、光を呼び込む。そして呼び込まれた光が、彼の絵画の空間の「地」となっているのである。

山の稜線上にあるときに、光がその両側からやってくる様子を、僕は想像する。そういう稜線上を辿り続けること、辿り続けることができること。それは、そこが山の頂上だとは言わないが、稀有なことである。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)