▲ 평면조건8420, 90×160㎝ Oil on canvas, 1984

たとえば抽象的であっても筆触が表現主義的だったら、作品はあまりにも絵画的になってしまうから、崔明永の場合、色彩の限定はどうしても筆触の限定を伴う。跡を残さないように筆を平らに運んで絵を描く。その試みが極点を示すのが1979年から1981年にかけての時期にほかならない。色彩の限定は1970年代半ばを過ぎるとほぼ「白と黒」になる。

他方「筆触」の方は、この3年間以前はまだ揺れ動いており、そしてこの後になると、極点を超えた在り方を獲得する。「筆触」については、この3年間はその意味で分水嶺であり、かつ極点でもある。この3年のあいだの「白」の作品に着目して見ると、画面の手触り(texture)が、肌理が少し粗く、少しザラザラしているものから、全く平らで(flat)、不注意な観客なら機械的に塗ったのではないかと勘違いしてしまうかもしれないくらいのところまで、均質化する。

画面が「抽象的」な作品の場合、筆触は一方で画家の行為、表現性、感情などを直接示しうる手段なのだから、他方で(画家によっては)絵具や画布という物質をして語らしめる手段なのだから、筆触をすべて消していくとは、そのどちらの可能性も排除することになる。

▲ 평면조건8426, 90×160㎝ Oil on canvas, 1984

したがって否定性を突き詰めていくことになる。はじめから単純化と極限化を目指していた崔明永は、初個展のときから数えると4~5年でそこまで到達したことになる。この到達点の作品では、筆触がほとんど完全に無くなる。また、四周の端を注意して見ても、多層の重ね塗りがほとんど判らなくなり、「地と図」の区別がほとんど無くなる。

不思議なのは、重ね塗りの様子は見えないにもかかわらず、この白い画面が、物理的というよりも心的、感覚的、身体的な、これまでにないひとつの「厚み」のようなもの、言い換えれば「空間」を湛えていると感じさせることである。とはいえ、この「厚み」にはその底に「地」があるわけではないとも感じられる。普通の抽象絵画なら、画面の下の「地」が見えなくても、観客も画家も、「地」の上に抽象画面が成立しているとみなす。絵画とはそういうものだから、そういうものだったからである。

しかし崔明永(한국단색화 최명영,Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG,DANSAEKHWA:South Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영, 모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)のこの白い作品では、いってみるなら「地」と「図」が一つのものになっている。

というか、何かを描くという意味ではこの作品は何かを描いているわけではないから、「図」に相当するものはない。もともと無い。そして「図」のないところには「地」もない。ありえない。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)