▲ 대구미술관 ‘기(氣)가 차다’ 전시전경 <촬영:이만홍>

ところで、この黒い韓紙という下の層が「支持体」や「地」ではないこと、それも、そこも「絵画」であること、そしてそれがあってこそ二重構造がもたらされて「広がり」が生れていることは、さきほど既に言った。

支持体や地でなければ何かというと、それは、それじたい絵画の一部でありながら、同時に、絵画の「基底」をも成している。そういうものである。たんなる底ではなくて、上の白い層と対をなす地平という意味での「基底」である。そうして、敢えて図式的にいうなら、上の白い層が「実」であり、下の黒い層が「虚」である。そして勿論、その逆も真である。

上の層の色彩、自由な制作行為、筆触という「実」は、下の層の「虚」に支えられている。それは、下の層の「虚」が無ければ、たんなる絵画で終ってしまう。逆に、「実」としての下の層は己れと正反対の現れを、「虚」である上の層に担ってもらわなければ、「虚」と見える「実」である自分を充実させることができない。

「絵画空間」というものが、形や物語の表現でも抽象的構成でもなく、それでもなお存在しうるとしたら、それは「虚」であり「実」でもある、一つの「広がり」としてしか在りえない。

あの「3年間」の作品で、それを「虚実」が一つのものになった構造によって実現した崔明永(Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa:abstract paintings of Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영,단색화:한국추상회화 화가 최명영,모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)は、今度は「虚」と「実」を、密着させながら離すという構造によって実現しているのである。

「虚」と「実」が密着しているから、この「広がり」はつまり狭い、とも言いうる。心と感覚と身体の位相だけに限定されたものにすぎない、とも言いうる。それでも、これは「絵画」である。しかも「新しい」絵画なのである。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)