▲ 평면조건G14-67, 78.5x54.5cm Acrylic on Grid Paper, 2014

近代以降の、つまり現在の絵画とはどういう試みであるべきだろうか?僕は、過去の「繰り返し」ももちろん否定しないし、新しいテクノロジーに依拠する試みももちろん否定しない。ただ、前者については、非西洋地域には可能性は少ないと思うが、西洋というより西欧ならば「洗練」ということがありうると考えている。

「洗練」の力を侮るべきではない。他方、後者については目新しさは芸術の本質とは関係ないと思うので、西洋においても非西洋地域においても、まだまだ時間がかかると考えている。ビル・ヴィオラ(Bill Viola)の昔の言葉を借りれば「ヴィデオ・テープはヴィデオ・アートではない」のだ。

いずれにしても僕は、絵画とはそこに一つの独自の空間を生み出すもの、作り出すものであるべきだと考える。依然としてそう考えている。形とか物語ではない絵画を目指した崔明(Dansaekhwa-Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa:abstract paintings of Korea Artist CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백,최명영 작가,단색화 최명영,단색화:한국추상회화 화가 최명영,모노크롬회화 최명영,단색화가 최명영,韓国単色画家 崔明永,韓国の単色画家 チェイ·ミョンヨン)もそういうことを試みてきた作家の一人であることをここで語ってきた。

「一つの独自の空間」、それを「広がり」とか「空間」と呼んできたのだが、ここで、また別様に言い換えてみる。あの「3年間」の作品では、幾層もの塗り重ねのなかに畳み込まれた「空間」が、不思議なことに最上層の画面に滲み出すように現れている。そして1997年以降の作品においては、作品が二層を成しながら一体化しているので、「空間」はまさしくその間に、より見え易いように現れている。

そういう「空間」、あるいは「広がり」を眼にしながら、2015年9月のソウルの彼の個展会場で、僕の脳裏には一つの言葉が現れようとしていた。その時は口に出さず、その後、自分のなかで反芻していた。「光」という語である。

僕が見ていたのは絵画作品なのだが、眼で感じていたのは名付づけ難い「空間」ないし「広がり」だった。その時、ふと、「光」を感じたのである。「光」が見えたというのではないけれど、「光」のようなもの、雰囲気を感じたのである。まなざしが下の黒い層と上の白い層の位相差に捉えられた途端、下の層の向う側と上の層のこちら側の両方へ、まなざしが同時に引っ張られるように感じて、これは何だろうと思った。その瞬間、「光」という言葉が浮んだ。

この「広がり」はつまりは「光の広がり」なのだ。あるいは、「光という空間」なのである。あるいは、「光」によっていわば裏打ちされた「空間」なのである。現実の物質とはいえないかもしれない「心・感覚・身体性」が現実化する、空間化することを支えているのは「光」なのである。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)