▲ 평면조건7903, 8022, 8036, 8212-B 55×90㎝(each) 한지, 먹

必然的にというべきだろうか、「構成」と呼ぶべきものが姿を消す。平面が平らな塗りで覆われているということじたいが、それだけがいわば「構成」になるほかはない。つまり「構成」を内在化しなければならない。絵画における「構成」を、「形」や「色彩」に頼って作り上げるのではなく、画面の平面の上だけで内在的に集約するのだ。だから従来の意味での「構成」は無くなる。

ちょっと比較をしてみよう。西洋で抽象絵画が展開していったとき、とくに第二次世界大戦後に起ったのは、一方では(例えばフランク・ステラ Frank STELLA のように)、色面をあっけらかんと物質化したことで「構成」じたいが消失すること(ないし横方向か縦方向に色を変えていくことで「構成もどき」を作り出すこと)だった。

そして他方では(例えばマーク・ロスコ Mark ROTHKO のように)、思想や内面感情などを力業で画面に塗り込めることによって、「構成」は消失しているのに、その思想なり内面感情が「構成」の代役を果たすことになるという事態だった。しかし、それはあくまでも「代役」なのであって、「構成」ではない。

ただ後者のような場合、たとえロスコの天才をもってしても全く平らな色面でそれを実現するのは理論的、また現実的に不可能だから、なにがしかの造形的工夫に頼る他はない。ロスコの場合、それは「筆触」ではなく「色の位相差」であることは周知の事実である。その「位相差」を通して思想や心を暗示する。

▲ 평면조건(Conditional Planes)8036, 55×90㎝, Oriental Ink on Korean Hanji, 1980

崔明永は、勿論、そのどちらの道も選ばなかったし、折衷は論外だった。造形的に「構成」ということを考えずに画面に向った時点で、意識的に西洋でいう「絵画」の外側の、「平面作品」という地平に出たのである。それならその地平は「絵画」とまったく無関係かというと、そうではない。西洋絵画を否定して、その外側に出るけれど、彼は改めて自分の人間的、また絵画的な出自と現状を捉え直すのだ。

「構成」をとりあえず手放して、画面を単色で平らに塗るという方法を採用したとき、彼が直感的に理解したのは、その「行為」は繰り返されなければならないということだった。「自然」とは繰り返すことである。まずそういう自然のリズムに、描く行為を同調させること、重ね合わせてみる。そして反復してみる。問題は理念とか概念のレヴェルのことではないから、反復することで身体と感覚で体得していかなければ話にならない。

これは、ある意味でスポーツの練習とか僧侶の修行のようなものだから、つまり実践なのだから時間がかかる。その手間を省くことはできない。誤解はないと思うが、崔明永は描く「行為」そのものに主眼に置いているわけではない。数限りなく繰り返すのは、最終的には繰り返すことなく繰り返すためである。

自然は毎年同じように、でも本当は全く同じというのではないように繰り返していく。彼はそのことに着目する。同じことの反復は、彼にとっては「差」の蓄積でもある。と同時に、同じことの反復は「差」を沈め、鎮めもする。そうやって沈められ、鎮められることで、反復の行為と結果が純粋化する。平らになった画面上に「差」はもう見えない。見えないけれど、感じられはする。

だから、「構成」ということを言うなら、そこに新しい「構成」が生れていると言うことも出来なくはない。それは従来の意味での「構成」ではなく、むしろ「心的に、かつ感覚的に、構造化されたもの」とでも言うべきものである。平面作品であるにもかかわらず、彼の「反復」はそういうひとつの「構造」を生んでいるといってよい。それは、なまじっかな既成の「構成」よりも強いものである。参考までに、彼は自然を「模倣(Mimesis)」しているのではなくて、自然のリズムに合わせているだけだ。

崔明永(단색화가 최명영,Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa CHOI MYOUNG YOUNG,최명영 화백, 최명영 작가,단색화 최명영,韓国単色画家 崔明永)という東洋人が自然の一部として自然のなかに自然として生れて存在していること、彼はそのことにごく自然に、しかし自覚を経たうえで、従っているにすぎない。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)