▲ 等式75-32, 146.5×112㎝ Oil on canvas, 1975

2015年9月、ソウルに崔明永個展を見に行った(「崔明永・平面條件」展、The Page Gallery、8~9月)。それは、1975年の作品から新作まで、いわば回顧展を兼ねた新作展で、かなり規模が大きな展示だった。崔明永さんに会うのも本当に久しぶりで、彼の作品をまとめて見るのも久しぶりのことだった。

会場を回りながら、例えば《平面條件 8196》(同展図録番号29番)のような白を何層にも塗り重ねたモノクロームの作品群の前に来ると、眼が自然に強く反応することに気がついた。

僕が始めて韓国を訪れて韓国作家の作品を初めて「現地で」見たのは1981年のことだったが、確かその折には崔明永(한국단색화 최명영, Korean monochrome painter CHOI MYOUNG YOUNG, Dansaekhwa CHOI MYOUNG YOUNG, 최명영 화백, 최명영 작가, 단색화가 최명영, 韓国単色画家 崔明永)さんのアトリエも訪れ、そのときに見たのがこの作品群だったからだろうか。

▲ 等式75-5, 146.5×112㎝ Oil on canvas, 1975

35年ほども前のことだが、大きな感銘を受けたのである。僕は彼より5歳年下で、2015年には、おたがい歳を取ったこともあって、展示場で僕の身体と眼が、自分も知らないうちに、センチメンタル・ジャーニー(感傷旅行)的になっていたのかもしれない。そういうことは、あるのだ。しかしそのことに気がついて、そういうセンチメンタリティー(感傷性)を振り払ってみたとき、会場の作品群を見渡して、僕は二つの印象をもった。

一つは「本質的な変らなさ」とでもいうべきことである。真正の画家は、本質的な画家は、若さにまかせての試行錯誤の時期を過ぎ、自分が実現すべき「絵画」のいわば広がりを感覚的に把握すると、その後は一貫して変らないものであるらしい。変りようがない、と言うべきかもしれない。変ることができないという才能がある。近代のある時期以降、「新しいものほど良い(The newer the better)」とか、表現は常に新しくあり続けなければならないといった考え方がだいぶ幅を利かせてきている。

そんなことは不可能だとは言わないけれど、少なくともそれは絵の「表面的な様式」の変化ではない筈である。変化、展開とは、深みへ向うものであるだろう。ただ、絵画という平面作品では、その「深さ」はあくまでも平面上で展開される。

ここに、絵画という芸術の困難がある。と同時に、どんなに困難でも、そこにこそ「深化」という新しさの可能性がある。「絵画」とは進化する芸術ではなく、ひたすら「深化」すべき芸術なのである。もう一つは、その「深化」のなかの「変化」ということで、とくに1997年以降、現在に到る彼の作品群のなかに、それを感じた。これについては、日本に戻ってから、少し時間をかけて考えてみた。なので、この文章ではこの二つのことについて書いてみることにする。

△千葉成夫(치바 시게오), 美術評論家(미술평론가)