紙を彩色して裁断したら、手に触る触感に沿って画面を構成する作業が始まる。裁断した韓紙は高ければ高いまま低ければ低いまま、互いを合わせて画面を成す。パネルの上の谷の形態は薄い膜のような韓紙を立てるために糊を塗って合わせてできる。

音が音を呼ぶように、線は線を呼んで並ぶ。時には斜線、垂直線で、手はその材料がもつ物性からありのままの姿に自ら合わせていく。ソン・グァンイックに材料はただの対象に過ぎないもので、留まらない。作業に対する方向と計画が定まると意識と身体は一つになって没入してしまうと作家は言う。

その行為の中に完全に入っているとき、作家(서양화가 송광익,송광익 작가,송광익 화백,한지작가 송광익,한지추상화가 송광익,KOREA PAPER,宋光翼,지물(紙物),SONG KWANG IK,ARTIST SONG KWANG IK,ソン・グァンイック)の生だけでなく、彼を囲んだ世界から存在は表れる。一つ一つを足すのではなく、一つ一つに込められている話が画面に映り浮かぶ。それは時間の痕跡を消し合う考古学的事件ではなく、身体が合う時間と空間の物語である。

 

韓紙を触る彼の手と身体は、彼を囲んでいる世界と共に思惟する。メルローポンティが言うように彼の身体が覚めるとつながった身体も、キーボードも共に覚める。彼らは私という場所に出没する存在で、彼らの存在は私が出没する場所だ。

そして私は彼らと共に現存するある種の大きな存在に出没する。ポンティのこのような考えのように、作家が眺める世界は私とは離れた対象として観察されるのではなく、作家にすでに映っていて作家は自分が向き合っている世界に映っている。

山が、風が、水が染まっていない私を考えられないように、私が染まっていない雲を、あなたを、材料を考えることはできない。ポンティは質感、光、色、深みが私たちの前に存在できる理由はこれらが私たちの身体の中で反抗を引き起こすためで、私たちの身体がこれらを歓迎するからだという。

△ペ・テジュ_美術評論(美学/哲学)/배태주 미술평론가